政治から憎悪をなくしたい
自分はふだんから物事に狼狽するということがほとんどない人間だ。しかしこの安倍元総理の突然の死去には、自分でも意外なほどにショックを受け、激しく動揺した。それほど安倍さんの存在は私にとっても大きかったということだろう。
犯人の真の動機やそれを惹起した原因などはこれから明らかにされていくものと思うが、私がこの許しがたい事件を契機に思うのは、「日本の政治から憎悪をなくしたい」ということだ。
1億2000万人も日本人がいれば、一方的な思い込みから凶行に走ってしまう犯罪者がゼロにはならないのは、ある意味残念な自然の摂理だ。しかしその矛先がどちらに向かうのかは、犯人が人生で接する様々な情報がそれに大きな影響を及ぼすのは間違いないだろう。特にSNSが広く普及した現代においては、インターネット上の情報が、社会のそこかしこで生まれる小さな不満を激しい憎悪に育ててしまう事例は無数にあるはずだ。
私も一般人から地方議員になって8年目となるが、政治の世界における怒りや憎しみに直面して困惑することは少なくない。普通のビジネスマンだったら浴びることのないような厳しい言葉をしばしばかけられる。何ならそれまで仲良くしていた知人からもある日突然きつく批判されることがある。これは議員という公的な立場からすると当然のことなのかも知れないが、しかしなぜこの業界だけが怒りをむき出しにしてよいことになっているのか?と悲しくなることがあるのも確かである。
一般国民のそのような素直な感情は、有権者そして納税者の意見として私たちは真摯に受け止めなければならない。しかし選良たる政治家や社会の公器であるメディアが、議論の本質から離れたような個人の資質をクローズアップして悪しざまに罵り、悪の権化のように祀り上げるのはいかがなものか。まさにここ数年その象徴であったのが安倍元総理であるわけだが、今回の凶行の根底に「反アベ」の強烈な世論があったと推測する人は多いだろう。
秋田においても、首長や国会議員に対し老害、無能などと激しく罵る言葉が散見されるのは残念なことだ。政策の是非は大いに批判し合ってよいと思う。しかし憎さ余っての全人格的な否定はむしろ建設的議論を阻害するし、秋田を良くすることには決してつながらない。私は県議会において立憲民主党や社民党、共産党の議員とも仲良くしているので、意見の異なるテーマについてもむしろ率直な対話ができている。議論をするのに感情的対立は必要ないのだ。私たち与党や現職首長にはもちろん行き届かない点もあると思うが、ひたすら誰かを悪者に仕立て上げることで支持を増やしていくスタイルは、行き過ぎると暴力につながる可能性すらあるということを肝に銘じるべきだ。
私などのレベルではそこまで危機感を感じることはないのだが、これから政治を志す有為な若者たちの意欲をそぐことにならなければよいが‥と案じている。この悲しい事件を契機に、自分自身も含めすべての政治家が、これまでのあり方を考え直すべきだと思う。